死して虜囚の辱めを受けず2008年08月10日 04時12分32秒

戦争中、降伏した軍人、占領された地域の民間人の生命やその財産等を保護する国際法があります。
ジュネーヴ条約が有名ですが、これは1864年に発足し1929年に最終的な形態が確立されました。
しかし、日本は調印しましたが批准はしませんでした。

一方、ハーグ陸戦条約という同じ国際法(1864年に発足し1911年に確立)が有り、これは日本も批准しています。
この間に有った、日露戦争においては遵守されていたと記録されています。
批准される前でも尊守されていたようです。乃木大将とステッセル将軍の話は有名でしょう。

この国際法には戦闘員(戦う事が出来る人)としての規定が有ります。
責任ある指揮官が居て、遠くから、戦闘員である事分かるマークをつける事ですが、これらは「非戦闘員(民間人等戦闘力の無い者)を攻撃してはならない」という考えから出たものです。
従って、戦闘員として識別できない姿で戦闘行為をすると犯罪者として処罰されます。

それと同時に捕虜に対する待遇も規定されていて
「立派に戦った結果捕虜になったのだから、非戦闘員として待遇を受ける」事です。
ゲリラや義勇兵でも、この規定に合えば、戦闘員として扱われ、負けて捕虜になった時は非戦闘員としての待遇を受けます。


戦闘行為自体が許されることでは有りませんが、当時としては、「最低限これだけは守ろう」という事だったのでしょう。
「武士道」「騎士道」で考えれば当たり前の事です。



にも係らず、何故
「死して虜囚の辱めを受けず」なのでしょうか。

「敵の捕虜は守れ、自分達は死ね」では意味が通りません。



実は、「死して虜囚の辱めを受けず」の意味が違うようです。
シナ事変、或いはそれ以前の中国大陸での戦闘は、アメリカでのインディアンと騎兵隊の戦闘に近いもがあったそうです。
白人がインディアンに捕まるとどうなったかまでは書かなくてもご存知でしょう。
中国大陸における馬賊がこのインディアンに近い事をしたと父から聞いています。
「馬賊は山賊であって敵も見方も無い犯罪人だった、中国軍では無い」と言っていました。
この言葉には「中国軍は敵だったが、立派な軍隊だった」というニュアンスがありました。
山賊が国際法など守るわけが有りません。

ですから、「死して虜囚の辱めを受けず」だったようです。


ところが、この「死して虜囚の辱めを受けず」を故意に誤解し、悪用したのが(一部の)憲兵だったようです。
国際法の存在を認めず、無視したのです。

その方が、兵士を管理し易かったのでしょう。
しかし、「手抜き」では済まされません。
その結果、日本軍兵士のみならず相手国兵士、民間人の被害は大きなものになり、悲劇を余分に作ったのです。


ですから、終戦後の「日本軍憲兵」に対する対応が異常になり、叔父のような事が起こったのでしょう。


この憲兵は間違いなく「戦犯」です。
戦争の結果に関係有りません。

私の解釈が間違っているかも知れません。

しかし、ハッキリ言える事が有ります。

「何故、こういう悲劇が生まれたか、明確になっていない」 です。


私も父が話してくれなければ、何も知りませんでした。