8月6日2008年08月06日 04時54分31秒

嫌な日ですね。 一句作る気持ちになりません。

原爆の使用に関して、絶対に賛成する人は居ません。たとえアメリカ人であろうとも。

只、一番人命が失われない方法となると諸説出てくるのも事実です。

この事を避けて終戦の日を迎えるのは、亡くなられた方に対し無責任だと思いますが如何でしょうか。


この事を考える前に歴史をさかのぼる必要が有ります。

それは「宣戦布告」です。

「宣戦布告」とは「これから戦争しますよ」という意思表示です。

戦争です、国民と国民との殺し合いを言い渡した訳です。理由はいろいろ有るでしょう。
ABC包囲網による経済的圧迫とその対抗処置が主たる原因のようですが、他にも沢山有るでしょう。
此処から、開戦の良否を論ずるのは無意味です。

いかなる理由があろうとも、数百万の人命を無視するなんて許される事では有りません。

まして、民間人を攻撃するなんてもってのほか!。



では何故、各地への大空襲、広島、長崎への原爆投下となったのか。

「死して虜囚の辱めを受けず」(死んでも捕虜になるな)

この言葉が広島、長崎に原爆を落としたような気がしてならないんです。



私の叔父も靖国神社にいます。

母は幼い頃に両親をなくしました。戦死した叔父と二人兄弟です。
幸い、母を預かってくれた祖母の実家が母を大事に育ててくれました。
私の「大切な田舎」です。

話がそれましたが、そんな大切な叔父が、「死して虜囚の辱めを受けず」と言った人と一緒に靖国神社にいるのは理解出来ません。



「死して虜囚の辱めを受けず」
この言葉のため、サイパン、グアム、沖縄で沢山の民間人が死にました。
米軍の攻撃に依って死んだ訳では有りません。
自ら、或いは・・・・・。

その為、米軍は軍人と民間人の区別が出来なかった。

戦争とはそういうものだと父から教わりました。

戦犯2008年08月07日 05時17分50秒

毎年、終戦記念日を迎えると、色々な戦争ドラマが放映されます。

今年の「私は貝になりたい」はSMAPの中居さんのようですね。

あのドラマは悲惨すぎて余り見たくないのですが、一度は見る必要が有ると思います。

「上官の命令で仕方なく捕虜を殺した主人公が戦犯として処刑される」
これが大筋ですが、この上官は?です。



占領軍の「戦犯」に対する処分は異常と思えるところが有ります。
A級戦犯(戦争指導者)では有りません。

いわゆる、「B,C級戦犯に対して」です。


私の叔父はシベリアで8年間捕虜生活をしたと聞いています。

普通の兵士は長くても3年くらいで帰国できました。

8年間の理由は同姓同名の憲兵将校が居た為のようです。
この憲兵将校は「戦犯」の容疑者でした。

日本へ帰る船までは来るのですが、「同姓同名」が原因で、再び、収容所に戻されるという事が数回あったそうです。

収容所のロシア軍将校が「なんで帰れないんだ」と調べてくれて、事実関係がハッキリして、やっと帰国できたと聞いています。

この間、8年。

8年も長いですが、「同姓同名」が分からなければ、「戦犯」にされた可能性も有ります。


此処までされる「憲兵将校」は何をしたのでしょう。

死して虜囚の辱めを受けず2008年08月08日 04時26分03秒

私はこの言葉が「戦争犯罪」だと思っています。

シナ事変(漢字変換できませんし、この言葉自体不愉快なのでこのままにします)に行った父から聞いた事です。



敵の捕虜になった後脱走して帰還したり、戦闘が終了した後、負傷して原隊への帰還が遅れたりすると

「敵前逃亡」

として処分されたそうです。

「負けたら生きて帰るな」という事のようです。



敵前逃亡ですから量刑は決まっています。

この為、終戦後も日本に帰れない方が居たのは皆さんも良くご存知でしょう。
話題になった方がほんの一部だという事も。


又、「白兵戦(刀剣と突撃だけの戦闘)の時は、覚せい剤が配られた」とも聞いています。

白兵戦なんて普通の人間が出来ることじゃない。だから薬でごまかす。
こんなもの飲んだら生きていられるわけが無い。
飲まずに戦った。

重すぎる父の言葉です。



当時の日本軍は「死ね、死ね、死ね」だったようですが、この風潮は昭和初期からです。



人間の感覚として、自分達が「死して虜囚の辱めを受けず」なら、敵に対しても同じ考えが出てくるでしょう。

また、軍人、民間人の区別も無くなるでしょう。


「私は貝になりたい」の背景だと思います。

8月9日2008年08月09日 04時52分41秒

長崎も広島も原爆が落ちる事は無かった。

これが結論です。



以下に、迫水久常氏の著書「機関銃下の首相官邸」からその概略を書きます。
迫水氏は終戦時に今の政府で言う「内閣官房長官」をされていた方です。

昭和20年4月5日に鈴木貫太郎男爵に組閣の大命が下った。

昭和天皇の意思は速やかに戦争を終結する事。

陸軍大臣に阿南惟幾、海軍大臣に米内光政、外務大臣に東郷茂徳を擁し、戦争終結に奔走するが、日本陸軍からの圧力で、終戦が遅れた。

特に(一部)陸軍憲兵の行動は異常だった。
和平工作をしていた廣田弘毅を事情聴取したり、終戦の仲立ちを頼んでいた駐日ソ連大使を勝手に訪ねる等という振る舞いをした。
和平を口にしたり、戦争を悲観的に見たものは直ちに逮捕した。
吉田茂氏(戦後の日本を立て直した首相)も逮捕された。

又、無条件降伏を迫ったポツダム宣言は軍に対する無条件であって日本国に対する無条件降伏では無かった。
ドイツの場合は国に対する無条件降伏だった。

と、書かれています。


軍(一部憲兵)の邪魔が無ければ、8月6日以前に、このポツダム宣言を受け入れる時間は十分有ったようです。



終戦が早ければ原爆は間にあいませんから、長崎も広島も原爆が落ちる事は無かったわけです。

終戦が遅れた為、長崎、広島に限らず、失われた生命は数十万ではすまないでしょう。

4ヶ月も終戦を遅らせ、数十万以上の命を失ったことが「戦犯」です。




昭和になるまで軍の暴挙は無かったようです。

この原因をきちんと自分達で究明しなければ、又、同じ事が起きます。

「軍隊」という問題では有りません。

事実を直視しなければ、「世の中が間違った方向に進む」という事です。

それが出来ないから、長崎、広島の悲劇が生まれた事実を知るべきです。

「原因のすり替え」をしないようにしたいものです。

死して虜囚の辱めを受けず2008年08月10日 04時12分32秒

戦争中、降伏した軍人、占領された地域の民間人の生命やその財産等を保護する国際法があります。
ジュネーヴ条約が有名ですが、これは1864年に発足し1929年に最終的な形態が確立されました。
しかし、日本は調印しましたが批准はしませんでした。

一方、ハーグ陸戦条約という同じ国際法(1864年に発足し1911年に確立)が有り、これは日本も批准しています。
この間に有った、日露戦争においては遵守されていたと記録されています。
批准される前でも尊守されていたようです。乃木大将とステッセル将軍の話は有名でしょう。

この国際法には戦闘員(戦う事が出来る人)としての規定が有ります。
責任ある指揮官が居て、遠くから、戦闘員である事分かるマークをつける事ですが、これらは「非戦闘員(民間人等戦闘力の無い者)を攻撃してはならない」という考えから出たものです。
従って、戦闘員として識別できない姿で戦闘行為をすると犯罪者として処罰されます。

それと同時に捕虜に対する待遇も規定されていて
「立派に戦った結果捕虜になったのだから、非戦闘員として待遇を受ける」事です。
ゲリラや義勇兵でも、この規定に合えば、戦闘員として扱われ、負けて捕虜になった時は非戦闘員としての待遇を受けます。


戦闘行為自体が許されることでは有りませんが、当時としては、「最低限これだけは守ろう」という事だったのでしょう。
「武士道」「騎士道」で考えれば当たり前の事です。



にも係らず、何故
「死して虜囚の辱めを受けず」なのでしょうか。

「敵の捕虜は守れ、自分達は死ね」では意味が通りません。



実は、「死して虜囚の辱めを受けず」の意味が違うようです。
シナ事変、或いはそれ以前の中国大陸での戦闘は、アメリカでのインディアンと騎兵隊の戦闘に近いもがあったそうです。
白人がインディアンに捕まるとどうなったかまでは書かなくてもご存知でしょう。
中国大陸における馬賊がこのインディアンに近い事をしたと父から聞いています。
「馬賊は山賊であって敵も見方も無い犯罪人だった、中国軍では無い」と言っていました。
この言葉には「中国軍は敵だったが、立派な軍隊だった」というニュアンスがありました。
山賊が国際法など守るわけが有りません。

ですから、「死して虜囚の辱めを受けず」だったようです。


ところが、この「死して虜囚の辱めを受けず」を故意に誤解し、悪用したのが(一部の)憲兵だったようです。
国際法の存在を認めず、無視したのです。

その方が、兵士を管理し易かったのでしょう。
しかし、「手抜き」では済まされません。
その結果、日本軍兵士のみならず相手国兵士、民間人の被害は大きなものになり、悲劇を余分に作ったのです。


ですから、終戦後の「日本軍憲兵」に対する対応が異常になり、叔父のような事が起こったのでしょう。


この憲兵は間違いなく「戦犯」です。
戦争の結果に関係有りません。

私の解釈が間違っているかも知れません。

しかし、ハッキリ言える事が有ります。

「何故、こういう悲劇が生まれたか、明確になっていない」 です。


私も父が話してくれなければ、何も知りませんでした。